みにくいドバトの子

鳥に癒やされながら人生を深く考えてアレルギー完治とFIREを目指すブログ

人生のビジョンと苦悩 ~人生の累積報酬の最大化~

生きている中で永遠の悩みである「生きる意味」。

もともと生きている意味なんて無いことはわかってはいる。

だが、人生のビジョンが無いとどこへ向かえばいいのかわからない。

会社のプロジェクトでもそうだろう。ビジョンが無いと方向性を見失う。

 

こうして人生について深く考えていると次のように言う人がいる。

今が楽しければいいじゃん

人生は楽しんだもの勝ちであると考えると、これはある意味正しい。

しかし、これは今を楽しめている人間の発言である。

今を楽しめるようにできるのであればもちろんそうしている。

私は今が楽しくない。いや、これまでも今もずっと楽しくない。

もはや「楽しい」がわからない。

振り返ってみると、小学校の頃、夏休みの宿題で思い出を書く宿題があったが、思い出に残るようなことなんて何も無かった。

読書感想文の宿題では、本を呼んでも何とも思わなかった。読まなきゃいけないから読んでいるだけ。

楽しいことを見つけるために行動をしてもマイナスしか感じなかった。

 

私は生きているだけで辛い

これがずっと続くのであれば、死ぬのが最適解である。

小学生の頃「大人になったら夢が見つかる」と思っていて、ずっと見つからず結局大人になった。

「いつかいいことがある」という根拠ない期待より、「そんなもんさ」という諦めのほうが納得できる。

20年近く何も見つからなかったのだから、このまま何も無く終わる可能性が高い。

 

いろんな人の話を聞くと所詮人生は小さな幸せしかない。

日々の小さな幸せがあるから人間は幸福を感じ、生きていけるのだろう。

これは、日々の評価関数の基準がゼロ以上である人間の場合だ。

たとえば、何もない日の評価をゼロと感じる人間は、小さな幸せを感じればプラスな日になるし、嫌なことがあればマイナスになる。

「今が楽しければいい」という発言をできる人間はこのタイプの人間である。

この場合、人生の累積報酬(日々の評価値の和)を考えると、何もなければ変わらないし、嫌なことの頻度より楽しいことが多ければ、長生きするほどプラス方向へ大きくなる。

 

一方、私の場合は基準がマイナスだから、何もない日はマイナス、嫌なことがあればさらにマイナス、いいことがあってもその小ささでは負を脱出できるかわからない。

基本的に日々の評価値が負であるため、人生の累積報酬はどんどん負の方向へ進んでいく。

人生の累積報酬を最大化することが最も幸せな人生であるとすると、今すぐ死ぬことが最適解になる。

 

他の人と話していてビックリしたのは、

  • 死のうと思ったことがない
  • 楽しかったことが出てくる
  • 先のことは考えてない

ということである。これらは私にはあり得ないことである。

なぜこんな差異が現れるのだろうと思っていたが、日々の評価関数の基準が異なる人に相談して理解し合えるわけがないということに気がついた。

なぜなら、日々の評価がゼロである人にとっては特に人生の意味を考える必要はなく、小さな幸せのプラス評価により累積評価もプラス方向へ進めるからだ。

一方、私のようなコンスタントに負である人間は、生きる意味を見出さないとただ辛いのが続くだけだから死んだほうがいいという結論にしかならない。

そうなると、今後の人生や生きる意味について考えないといけなくなるが、考えている間は楽しくないし、考えても答えなんて無いのだから堂々巡りに陥る。

 

人生を振り返っているとこんなことを思った。

学生時代から楽しいと感じず、これまで感じてきたストレスが蓄積され、アレルギー反応という体の症状として具現化されているのではないか。

ステロイドで無理やり症状を抑えたら呼吸が苦しくなった。

無理やりデュピクセントで症状を抑えれば代わりに蕁麻疹が発症した。

日々感じる負の感情を私の体は何らかの症状として消化しているのかもしれない。