みにくいドバトの子

鳥に癒やされながら人生を深く考えてアレルギー完治とFIREを目指すブログ

生きている意味を考える

 楽しく生きている人は生きている意味なんて考えない. 

自殺を考えたことがある人だけが生きている意味を考える. 

しかし, 生きている意味なんて無いのだから, どれだけ考えても無駄になる. 

 

このままずっと病気で苦しみ続けるのならば, 今にも死にたいと思うが死ぬ勇気はない. 

それでも, ふとした瞬間に死にたいって思う. 

どんなときに死にたいと思うか考えてみた. 

  • 病気が酷いとき
  • 時間があるとき

前者は当然だが, 後者は時間があるときに生きている意味について考えてしまったり, 今後何も無いであろう自分の人生について考えてしまうのだ. 

やるべきことがたくさんあって忙しいときはそんなことを考える暇もない. 

ではずっと忙しければいいのかというと, それはそれで辛い. 

 

きっと私が生きていくには, 生きる意味を無理やりにでも持たせないといけない. 

たとえば, 

  • ネットで何かを購入する
  • ペットを飼う

前者について, 欲しい物を買ったときに家に届くまでの間は生きていようと思う. 

数日だけ生きる意味ができるのだ. 

物を買う以外にも, たとえば次のアニメの放送まで生きようだったり, こうした小さな生きる意味の連続で生きているのかもしれない. (なにも楽しめなくなった私が言うのもあれだけど. )

後者については, 一緒に過ごすパートナーを見つけることで, そのために生きていようと思うのだろう. 

しかし, 私はなかなかペットを飼うことに踏ん切りがつかない. 

その理由は, 

  • ペットが死んだときの悲しみ
  • いざとなったら死ねばいいという考えが使えなくなる

前者については言うまでもないだろう. 

私は文鳥を飼いたいのだが, あの小さな体を見ると「ちょっとしたことで死んでしまったらどうしよう」とか「寿命で死んだとしても, その悲しみを乗り越えて, その後また飼えるのか」などいろいろ考えてしまう. 

そして何より, 自分の命すら自ら落とそうとしているのに, ペットの命を責任持って最後まで育てることができるのだろうか. 

これは後者に関わってくることであるが, 私は高校時代にいろんな自殺方法を調べたことがある. 

そのときにあるサイトで見た「死ぬ方法を知ることで, いざとなったらいつでも死ぬことができるから, とりあえず生きてみよう」という考え方を知って今生きている. 

ペットを飼ったら, この考えは使えなくなるのだ. 

この諸刃の剣を使えなくなるのは, かなり痛い. 

今後, 私がペットを飼ってこのブログで報告するときが来るのなら, 生きていく自信が出たときだと思ってもらいたい. 

 

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